以下は、2月13日、ネヘミヤ氏が山谷氏の神学的な背景について再度質問を投げかけた文章である。
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昨日のOnly Grace氏の質問について、山谷氏はこのように回答しました。再建主義論争の中で答えているので読んでください、と。率直に申し上げますと、逃げておられるご様子。しかしこの問題は非常に重要ですから、私はきちんと決着がつくまで議論させていただきます。少々きつい質問もあるかと存じますが、ご理解いただければ幸いです。
一人の大学生のノートをノンクリスチャンの両親から奪って(奪ったのではなく、受け取ったと仰いますが、これは後で話しましょう。渡すように誘導したのではありませんか)、その内容を恣意的に解釈して止めようとしないので、今回、私があれこれと申し上げますが、決して山谷氏を厳しく攻めていることにはならないでしょう。羊が一千匹いても一匹の狼にはかないません。一匹の狼には一匹の狼が必要だと思います。
さて、根本主義(fundamentalism)という単語と宗教多元主義(pluralism)という単語は互いに完全に異なる見解であることはご存知でしょう。いったい、どうやって根本主義を背景に宗教多元主義を追究していけるのでしょう。そんなことが可能なのですか。あまりといえば不可思議すぎます。山谷氏による奇襲攻撃、例えば突然ウェブ上で疑惑を暴露されたり、非常に迅速に要約したうえで反論されたりしていますが、今回も同じように要約していただき、事情を知らない沢山の方々の前でご説明なさるのが当然ではありませんか。それを一つひとつきめ細かく吟味し、具体的に検証したいと思います。しかしながら、アフリカン・アメリカン、ヒスパニック・アメリカン、ジャパニーズ・アメリカン、みな結局はアメリカンなのです。だとすると、山谷氏、あなたは根本主義を基礎としようが何を基礎としようが結局は宗教多元主義者だということではありませんか。根本主義に基づいて聖書を逐一正確に守りながらも、他宗教にも救いがある、救いの道はすべての宗教に開かれており主イエス以外にも救いはある、などとお考えなのであれば、私ども福音主義者としては首を傾げざるをえない論理でしょう。では、それが果たして本当に可能なのか、徹底的に追求しましょう。
あなたは、聖書を基礎としてはいるものの、オカルティズム、ラジニーシ、その他もろもろの宗教にも救いがあると確信する宗教多元主義者にほかならないのではありませんか。このような信仰を救世軍士官が持っているとしたら、その人物こそ福音主義者の群れに潜伏している異端牧師ということになるではありませんか。某掲示板である方が指摘されています。「山谷少佐は菜食主義者でありながら肉食主義者か」、「山谷少佐は禁欲主義者でありながら性解放主義者か」。こんな馬鹿げたことがあり得ますか。根本主義者か宗教多元主義者か、それとも混合主義(syncretism)を指向しているのかを聞いているのに、エキュメニカル神学だとか過程神学だとか、そういう本を紹介するならまだしもいきなりどうしてオスカー・クルマンの「キリストと時」が出てくるのでしょうか?このような反応を見るにつけても、山谷少佐の神学的な立場がより気になるのです。
再度お尋ねします。少しはマシな回答をいただこうと待っているのです。私は再建主義論争を全部読ませていただきますが、少佐は根本主義と宗教多元主義の両端を行き来する境界人なのか、あるいは反対の一致、即ち根本主義と宗教多元主義の両極端を神秘的に合致させようというなのか、はたまた、閉鎖的にして開放的な神学を追求していこうというのか、いち教会の群れを導く牧会者として周囲に納得のいく説明がなされるべきです。
簡単、手短に説明してくださいませんか。数行で結構です。なぜなら、いま大勢の人が山谷氏の神学的土台と背景を知りたがっているからです。あなたは少々思考の分裂が生じているようですが。この問題にご返答いただいた後、次の質問に移ることといたします。