2007年2月13日火曜日

聖書根本主義に基づいた多元主義?

以下は、2月12日、Only Grace氏が山谷氏の神学的な背景について問いかけた文章である。

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双方による討論が激しくなるにつれて思うのですが、どうしてこれほどまでに話が通じ合わないのでしょう。お互いの言葉が通じないのにはいくつか原因があるはずです。互いに感情的になって対話を避けているか、互いの先入観や信念のゆえに対話がかみ合わないというケースもあります。一方が、日本人だけのACMは存在したことがない、教会の中にあったACMには日本人が非常に少なかった、あるいは、事実上誰もいなかった、云々、このように言うわけです。他方、山谷先生は、住所と名前が日本人ではないか、と反論する。CTと統一協会の件で混乱が生じていたと言っても、疑念の根拠は「韓国人がサイトを運営している」といったレベル。k氏のノートを指してACMの教義であると言い切るご主張にはどうも納得がいきません。脱会者の証言を含めて考えても、ACMの会員自体存在しないというのは間違いなさそうです。しかし依然としてACM会員から被害を受けた、社会的な逸脱行為をされたなどと言うのだから、苛立たしささえ感じてしまいます。

山谷先生のお話に登場する脱会者は、CTについて腑に落ちない点があったと言っていました。なぜ、CTはあれほどキリスト教にこだわるのか、なぜ、キリスト教の新聞を作っているのか。彼・彼女の本心が次のとおり、詳細に書かれています。

引用開始
『彼らの原理主義的なところは大嫌いでした』
『結局通うのを辞めたのですが、当時は私はこの団体を「原理主義がいくところまでいった団体」と思っていたので、ダビデ牧師を再臨のキリストとする団体とは思っていませんでしたね。』
引用終わり

この問答で脱会者は、脱会理由を「原理主義的なところは大嫌いでした」と言っています。そして、この方のいう、原理主義的、根本主義的な教えに嫌気が差したという言葉で思い出したのですが、私は以前から山谷先生の神学的な背景と信仰告白が気になっていました。つまり、「聖書主義的根本主義に基づいた宗教多元主義」なるものです。先生ご本人に確認せねばなりませんが、ご本人は確かに、「聖書的根本主義に基づいた宗教多元主義を指向する」と明言されていました。これはどういう意味なのでしょうか。不注意で誤って書いてしまわれたのか、それとも本心なのか。ご自身の神学的な基礎として標榜なさっているのだろうか。非常に気になります。

聖書根本主義である以上、聖句の一点一画も付け足さず、取り去らず、拡大解釈を避けて文字通りに信じる聖書無謬説と聖書霊感説を唱えるお立場であるべきです。そしてこれこそ脱会者が脱会した理由では無かったでしょうか。しかしなぜいま、山谷先生と脱会者は互いに意気投合してしまっているのでしょう。

聖書根本主義の聖書観を信仰の基礎とされているなら、生活自体が非常に保守的であるはずです。しかも、CTの人たちはそれほど原理主義的でもありません。部分的にそうであっても、全く全体がそうであるとは言い切れません。強いて言えば福音主義ではなかろうか、少なくとも私はそう考える次第です。

米国の神学校に例えると、私は、CTの立つ神学的スタンスがちょうどウェストミンスター神学大学とユニオン神学大学の間に立つフラー神学大学の神学色であると捉えていました。

ところで、山谷先生の神学的なスタンスはどのようなものでしょうか。「聖書根本主義に基づいた宗教多元主義者である」、これはどういう意味でしょうか。互いに神学的な立場を理解してこそ論争の中にあっても相手に理解を示すことができ、対話が進むというものでしょう。

「聖書根本主義に基づいた宗教多元主義者である」との発言に基づいて、私なりに以下のように分析してみました。これについて先生自身のお答えを聞かせていただきたい。

1)根本主義と宗教多元主義の両極端を行き来する「境界人」である。
2)反対の一致、すなわち聖書主義と宗教多元主義の神秘的な合致点を目指す。
3)根本主義を基礎として宗教多元主義を目指す。

反対の一致、これは非常に神秘的な言葉ですが、神秘的な言葉を好む山谷先生は事実このような神学に立つ人ではないかと考えさせられています。そもそも、山谷先生は自身のブログの自己紹介でオカルト(悪魔崇拝)に心酔した過去を認めているでしょう。自由なる性愛を提唱したオショウ・ラジニーシに追従した過去があったとも明かしています。良いでしょう。キリスト教は主に立ち返る宗教ですから、過去のことをとやかく言うつもりはありません。キリストによって新しくされたのですから。これ以上過去のことで私が追求すると、当事者たちの間で互いの顔に泥を塗りあう事態となりかねません。しかし必要と感じられるようであれば更に追求することもできます。

論点を戻してみましょう。聖書根本主義と宗教多元主義の共存とはどのような信仰状態を意味しているのでしょうか。また、このような神学を唱える神学者がかつてどれほどいたでしょうか。これは山谷先生が造った造語でしょうか、それとも聖書根本主義的かつ保守的で閉鎖性をもちつつも宗教多元主義的な開放性を追求しようということでしょうか。山谷先生の弁明を聞かせていただきたい。まずキリスト者としての、この基本的な土台が誤魔化されてきたために今回、論争がここまで拡大したのでしょう。菜食主義かつ肉食主義者、一夫一妻主義であると同時に一夫多妻主義者、こういった矛盾を参考にして、ご自身の信仰告白について真摯にご回答願いたい。

なぜなら、脱会者は福音主義を激しく批判しているからです。そして福音主義の信仰告白に対しても「そうとは考え難い」と言うような無茶な主張を繰り返しているのです。ノートの持ち主が自ら説明し、信仰を告白しているにもかかわらず、山谷先生は他人の信仰を否定するのです。これは率直に恐ろしい行為でしょう。キリスト者であれば良心の自由ぐらいご存知でしょう。もう今回はすでに人権問題へと発展しつつあります。k氏の告白を覆す権利など誰も持ち合わせてはいないでしょう。キリスト教の全ての権威をもってk氏の信仰告白を否定しても、それを崩すことはできないでしょう。山谷先生は、そのような基本的なこともご存知ないのでしょうか。知りつつも、すでに問題が構造化してしまったゆえに引っ込みがきかなくなっているのでしょうか。

「聖書的根本主義に基づいた宗教多元主義」について説明を求めます。説明がなされないなら、山谷先生が自身の独創的な神学に基づいて福音主義のキリスト者を裁く人であるということの証明となるでしょう。もう一度お尋ねします。脱会者を名乗る人は、脱会理由として、その団体の原理主義的な聖書講義が嫌になったと証言しているではありませんか。その人は、山谷先生、あなたという同じ聖書根本主義の牧師に出会ったということでしょうか。それとも、その人の出会った山谷真少佐という方は、宗教多元主義の開放的信仰をもった牧師だったのでしょうか。時間をかけて詳細に、それが出来なければ簡単にでもご回答願いたい。建設的な対話のためには、両者が互いの信仰のことを十分知るべきではありませんか。